正法眼蔵提唱7

正法眼蔵提唱7

 

 (補注) 浄土真宗の罪障観について (1)

 「行仏威儀」の巻のこの本文に見られた道元禅師の罪障観と親鸞聖人の罪障観とは、同じ大乗仏教として「絶対空」(真空妙有)を根底とすることにおいて根本的にはちがいはないが、それからの解脱と救済の仕方については大きな開きを示している。何といっても、親鸞聖人の個人的体験のように見られる(詳しくは後述)、深く厳しい内省とその懺悔のことばには、実に切実なものが感ぜられる。

 (1)誠に知んぬ。悲しき哉かな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利みょうりの大山だいせんに迷惑して、定聚じょうじゅ(安心を確かにする)の数に入ることを喜ばず。真証の証に近づくことを快たのしまず、耻づべし、傷むべし矣。(『教行信証』)

 (2)浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし、虚仮こけ不実のわが身にて、清浄の心もさらになし。 (『愚禿悲嘆述懐和讃』)

 彼自らを卑下して「愚禿ぐとく」と呼び、その烈しい罪悪感は、私の知る限り、道元禅師は勿論、禅仏教者たちには見られぬものである。

 果してこういう深く厳しい内省的な罪悪感と懺悔の悲歎は、どこから来るものであろうか。それにはまず前述したとおり、宗教的な立場からの罪の懺悔と倫理的立場からの内省的な懺悔とは、峻別しなければならない。後者の罪障における懺悔はどんなに深刻なものであっても、隣人や社会に対する横の関係における理性的自己の立場からの良心的な呵責にすぎず、それはどこまでも独立した自己の存在の矜持(プライド)を前提した限りの内在的な罪の自覚であり、倫理的立場からの善悪の価値が問題とされているのである。つまり人生を如何によく生きてゆくかという倫理的価値の問題に関心の重心が置かれているわけである。それに対して宗教的な罪悪の自覚と懺悔は、人生如何によく生きるかではなく、生きることそれ自体、いまこうして自己自身が生きている存在事実そのものが問題になるのである。それは具体的にいえば、人間の存在事実の根底にねざす根本無明(我執・自己中心性)そのものを問題とするのである。キリスト教ではこれを「原罪」と呼ぶのであるが、仏教でも「懺悔文」にある通り、「我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴 云々」として無始無終の無限の無明衝動による罪業としてとらえているわけである。

 注:倫理的な価値の立場からいえば、カントの倫理学は道徳の立法者としての人格に最高の価値が置かれている。人格とは、他の何ものの手段ともなることなく、どこまでも自己自身を目的とする自立的な自由の主体として、この人格に比類なき尊厳性を与えている。この人格を中心とする倫理的価値の立場は、宗教そのものの土台であって、必然的に宗教そのものが倫理的宗教の域を出でないものとなっている。しかし、その宗教的自覚に至っては、人間存在の成り立つ根底的事実、つまり、人間主体のゼロ点に立脚するところにその宗教的立場があるのであり、かかる宗教的自覚からすれば、カントの倫理学における人格観も、人格に対する一種のとらわれであり、それは我執の域を出でないのである。つまり、その宗教的自覚においては、かかる人格の意識さえも絶対否定されて、一個の「もの」に化して生きることが求められる。自己一身の人格的我執にもとらわれず、「一個のもの」となってはじめて神仏に事え衆生済度も徹底されるのである。それは、いわゆる「ヒューマニズム」をも超えた、我執の絶対否定として無我としての「全自己」を生きるのである。しかしながら、そのような絶対否定は、人間の自己否定の努力では果して可能なのだろうか。それが宗教的自覚として究極的に問われた一大事因縁であった。浄土門では、いかなる人間の努力によってもそれは全く絶望的であって、ひとえに絶対他力による以外には不可能だという、いわゆる「横超」の思想が主唱されたわけである。

 親鸞(1174-1262)の一生をふりかえったとき、師法然(1133-1212)と共に流罪に会う前に、既に彼は妻帯していたのであった。にもかかわらず仏僧の身として強烈な求道心を持ちつづけた彼は、内心幾多の葛藤をなめ、あげくの果て比叡山から下りて法然の門を叩いたのである。それはひとえに凡夫成仏の道を問うためであった。承元二年親鸞が三十五歳のおり、師法然と共に罪人として流刑されるにいたって、罪への自覚とその切実な悩みは一層深刻化し、自らの名を「愚禿」と呼び、「非僧非俗」を名乗ったのは、そのことを物語っている。これより五十年の間、流罪の罪を許されてもそのまま越後や関東の地にとどまり、愚禿の自覚のままに彼は生涯寺を住み家とせず、流罪地の農民と共に農業に生きぬいたのである。その間再び妻(恵信尼)をめとり、多くの子供(三男三女)を設け、家庭の悩みは最後まで尽きなかった。晩年は妻を置いて京都に帰り、九十歳の死没まで庵いおりを建てて一人住むこともなく、ただ寄寓に身をまかせ、彼の慕った賀古かこの沙弥教信きょうしん(注)のように在家にありながら仏号(南無阿弥陀仏)を称えて止まなかったようである。

 (注)賀古の教信:光仁天皇の皇子と伝う。もと興福寺の学僧、のち栄利を捨てて播州賀古に隠れ、西方にも墻せず、本尊を安ぜず、聖教を持たず、妻女を帯し非僧非俗の形にして常に念仏す。人呼んで阿弥陀丸という。貞観八年(866)八月寂。 (宇井伯寿『仏教辞典』)

 そういう親鸞の一生を振り返ったとき、前掲した親鸞の懺悔の悲嘆述懐は、彼自身の実生活上の個人的な体験に即した率直な内省的なものではあるが、それは単にそれにとどまらず、人間存在の根底に実在する一切衆生共有の根本無明に対する無限の罪業の自覚であった。その徹底的自覚は、人間主体のゼロ点(絶対空)に立脚する阿弥陀仏誓願の光に照らされてのことであった。だから前掲(1)の「愛欲の広海に沈没し、名利みょうりの大山だいせんに迷惑して云々」ということばは、彼個人の内在的な体験的述懐にすぎないとふつうには受け取られがちであるが、「愛欲の広海に沈没し」ということばが、「すべて色情を懐きて女を見るものは、既に心のうちに姦淫したるなり」という「福音書マタイ伝」のことばに通じてゆき、「名利の大山に迷惑して云々」ということばは、我々の現実においては、自己が抜群の人であることを喜び快たのしむことはあっても、人とまったく変わらぬ主体のゼロ点において愚者に徹した生き方は、あまりに普遍的で、その平常底の真実は、却って一向に魅力を感ぜず、それを生きがいとしないことを、「定聚の数に入ることを喜ばず。真仏の証に近づくことを快しまず」と言っているのではないかと思われるのである。かかる根本無明は、一切衆生に通底するものであり、親鸞は彼自身の体験に即して一切衆生を代弁するその代表者として、根源的な罪の自覚を告白懺悔したことばだったのであろう。かの善導も、

「決定して深く自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかた、常に没し常に流転して、出離の縁あること無しと信ず。」

と言っている。前掲(2)の親鸞の悲嘆述懐のことばも同様である。

 

 それではこのような罪障から、浄土真宗を含めて、浄土教ではどのような救済が見出されていたのであろうか。浄土門における「人間観」は、人間存在の根底において、例外なく誰ひとりとして根本無明から自由なものはいないというのである。反社会的な罪悪的行為は勿論のこと、たとい人間の善的行為であっても、自己中心的な我執に汚染されて雑善たるを得ず、人間の真の発菩提心(道心)はどんなに人間が努力しても絶望的に不可能である、というのであった。つまり人間のすること為すこと、人間のすべての営みは、「そらごとたわごとまことあることなし」(親鸞)といわれるのである。このような浄土門の人間観は中国仏教史の中で曇鸞(476-542)・善導(613-681)などによって深められ、その救済への道が問われていったのである。

 前述した通り大乗仏教一般による人間の罪障からの解脱と救済は、究極的には法性法身(特に禅仏教では三身即一の仏)の絶対空(真如)の場において開かれているのであるが、時代が下るに従って仏教は廃れ、釈尊の説く聖道門では一般大衆は絶望的な迷苦から救われることはなかった。醜悪な廃頽的世相、凄まじい争闘の世界は、現代にも通ずる世相ではあるが、そういう時代的状況の中で、浄土教ではいかにしてこの末世的な世界に苦しむ一切衆生を救うべきか、その済度の道として方便的にかたちをあらわした仏が方便法身であった。この方便法身仏ということばは浄土門で独自に使われた名称で、それは衆生済度のために絶対的な法性法身(絶対空そのもの)が方便的自己否定的にかたちをあらわした仏のことを言うのであり、それがいわば報身仏としての阿弥陀仏を意味していたのである。この阿弥陀仏によって絶対他力(横超)の道が開かれていったわけである。 〈つづく〉