正法眼蔵「即心是仏」の参究

正法眼蔵「即心是仏」の参究  (改訂版) 2023年8月 唐子正定

序論:「即心是仏」の巻を読むにあたって

 「即心是仏」という言葉はもともと馬祖道一の言葉である。ふつうこの言葉は、即心は仏である。自己存在又は自己自身は修証と無関係にそのまま仏であると解されている。しかし道元禅師のこの巻では全く破天荒な解釈がなされている。その大筋を示そうとすると以下のような筋道になるだろう。

 第一に禅師の立場は空の場に立っているということである。もともと一切法は空の場の内にあって空から空へである。その空の場にあっては諸法は例外なく無自性にしてそのときその場の動力学の内に働いている。しかしこの空の場に立つには、我々の自己が主体的に絶対否定のゼロ点(無我)において空の場の動力学と一体となっていることである。もともと空とは決してただ空っぽな無を意味するのではなく、「般若波羅蜜多」の絶対的な働きを意味するのである。それは「仏性」とも「心性」ともあるいは「正法眼蔵涅槃妙心」とも言われるが、実体として誤解されるおそれがあるので、あえて「空(第一義空)」という言葉を用いるのである。こうして我々の生きている世界はこの空の上に成り立っている有限の世界である。従って一切諸法は空と我々の世界との二重構造をなしているわけである。尤もそれは実体的な構造ではなく、単なる説明形式として見えざる世界の二重性として論理的に表現するのである。こうして空の場において一切諸法の個々の「もの」は「もの自体」として、また「自己」は「自己自身」として、如実かつ唯一的絶対的存在事実なのである。しかしそれらは同時に空と一なる世界内の事実として相対的仮現的現象的である。例えば「鳥飛んで鳥の如し、魚行いて魚に似たり」(「坐禅箴」) という言葉は空の場において飛ぶ鳥そのままの如実なる鳥の自体、あるいは行く魚そのままの如実なる魚自体でありながら、同時に世界内の鳥、世界内の魚として、それぞれ「如し」「似たり」として仮現的(現象)である。「般若心経」の「色即是空」「空即是色」は、両者の「色」はともに同じく「如実の色」と解されるが、それとは別に、前者の色は世界内の色として仮現的に対し、後者の色は空の場の色として如実なる色自体だとも解されるのである。

 第二に、空の場における一切諸法が無自性であるということは、空の場それ自体が力の場(動力学の場)である以上、一切諸法の一々はその時々によってどこからでも一切諸法の絶対中心になることができると同時に、逆対応的にその中心を支える契機として互いに主従の相入関係を自由にすることができるのである。これから参究する「即心是仏」についていえば、「即」も「心」も「是」も「仏」もその一々が相互にそれぞれ全体の中心になる時、他の一切はその中心を支える契機としてその中心に融即し、唯一的絶対的独立の事実自体となることができるということである。そこに互いの相入関係による動力学が働いているということである。もう一例として、「但ただ衆法を以て此身を合成す」という一句も(「海印三昧」の巻中にある馬祖道一の言葉)、教学的には「此身」という自己の存在は、限定的な「四大五蘊」の有自性的な様々の元素(衆法)の合成によってのみ成立すると解されるが、宗意では、「但以衆法」とは、限られた有自性的な元素の集まりを超えて、空の場の無自性的な尽界の即融相入を支えとして、今ここに現前する自己自体(「此身」)の成立の絶対事実を表現しているものと解される。「尽十方界真実人体」(「身心学道」の巻)という意味である。

 第三に、空の場には言葉の二重性が含意されている。というのは、空の場においては、いかなる「ことば」いかなる「意味」をも超えている言葉以前の原始の事実(「言」)が、世界内の「言葉」になっているからである。「歴劫無名」(「古鏡」の巻)であるの事実(「言」)自身が「有名の言葉」になっているのである。だからそれだけから見れば、禅仏教は空の場に立っているので、「ことば以前」として古来から「以心伝心」こそが仏法の真実であって、「教外別伝」のところに、禅仏教の真骨頂があると考えられてきた。しかし道元禅師においては、空の場に立つということは同時に我々の生きている有限な世界と共にあるということである。つまり空と世界と同時的であるから、原始の言葉以前の無相の事実そのものはこの世界においては必ず有相の言葉として現出するということである。勿論その言葉は単なる人間による妄想の言葉ではない。言葉以前の事実そのものが言葉になって出てくるのである。「ことばから出てことばへ」(上田閑照)である。道元禅師が一般の禅仏教の常識に逆らって教外別伝を否定するのはこの言葉の二重性によっているからである。仏法としての禅仏教は、単に悟り体験にとどまりそれにとらわれるものではなく、その体験が成り立つ身心脱落の行の論理性にまで究明されねばならないのである。現に、道元禅師の『正法眼蔵』は悟り体験(入仏)にとどまることなく、その成り立つ逆説の行的論理は、衆生済度の同事行の論理(入魔)にまで言及されていることを忘れてはならないと思う。「生死即涅槃」「煩悩即菩提」「生滅即不生滅」などという世界内の現象(仮現)としての生死・煩悩・生滅と、空の場の如実のそれ自体としての涅槃・菩提・不生滅との「即非」の論理も、その逆説(絶対矛盾的自己同一)の一例である。「言語道断心行処滅は一切の言語一切の心行なり。」(「安居」の巻) 特に「生滅即不生滅」は、空の場における時の問題として、時のうちの徹底が同時に時の外への超越として絶対現在を意味している。それは「一刹那即永遠」「無常即有常」とも言うことができる。

 第四に、これは前述のすべてに関連することだが、空の場における絶対中心に位置する自己は、尽十方界如実の個として天上天下唯我独尊の自己である。その唯一絶対的な独立の自己は、場所的個として尽十方界自己であると同時に、世界における自己として、他己(汝と彼)とは互いに絶対的のままで逆説的に相対する関係にある。このことを「身心学道」の巻では、「(真実)人体(の我)はたとひ自他(自己と他己)に罣碍せらるる(相対的関係にある)といふとも、尽十方界なりと諦観し決定するなり。」人体(自己)は相対的存在であると同時に尽十方界真実人体(場所的絶対的個)であるというのである。つまり空の場においては自己と世界(尽十方世界)と空(仏性)とは一であるというのである。

 総じていえば、禅仏教は自己の外に絶対的権威を置かない。真の自己とは何か、いかにして真の自己自身になり得るか、その自己究明の宗教である。しかもその自己究明の仕方は、他の宗教と比べて優れて哲学的である。もちろん禅仏教は単なる哲学ではない。哲学に対して強いてその特徴を引き出すとすれば、それは「哲学以前にして哲学以後である」(西谷啓治)。その「哲学以前」とは、哲学成立の根源ということであり、「哲学以後」とは、哲学からの超越ということである。特に道元禅師の『正法眼蔵』は、一般の宗教的教学の単なる教説の論理を超えていることは勿論、この第三の文節で言及した通り、大方の禅仏教の悟り体験そのものの説示の常識にも逆らって、禅仏教に対する哲学からの論理的批判的要請に応えて、行的な身心脱落の実存の論理を事としている。その行的な身心脱落の実存とは、真実の自己自身としての結跏趺坐の三昧王三昧に帰結するのである。

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(一)

仏仏祖祖、いまだまぬがれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり。しかあるを西天には即心是仏なし、震旦にはじめてきけり。学者おほくあやまるによりて、将錯就錯せず、将錯就錯せざるゆえに、おほく外道に零落す。いはゆる即心の話をききて、癡人おもはくは、衆生の慮知念覚の未発菩提心なるをすなはち仏とすとおもへり。これはかって正師にあはざるによりてなり。

 この最初の一文節で、「即心是仏」の巻の大意が表示されているものと思う。『啓迪』(西有禅師)の序文はその点で見事に主旨を言い当てている。「仏祖の一言は安易ではない、一代の全挙力が一句で現れている。ここを見はずすな。」この警句を私なりに解説するなら、「仏祖の一言」は「一代の全挙力」である。「仏祖の一言」とは、一切は空の場におかれている。従って空の場に立脚してはじめて仏法になる、その空の場に立脚するとは、参究する自己自身が絶対否定され、我なしの解脱の自己(身心脱落、脱落自己の実存)としてはじめて仏祖の一言となっているのだ。その時仏祖の一言は空の場において、無自性・無基体的となって活きている。従って最初の一文、「仏仏祖祖、いまだまぬがれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり」は、まず『御聴書抄』(経豪)の注釈を挙げると、「此即心是仏の詞を、打任て心得たるには(普通の理解では)、此意識の心を指して、是(れ)(ち)仏也と云(う)様に心得たり。」又「仏仏祖祖は、此即心是仏を保任(保護任持)すると云へば、即心是仏の道理を、仏仏祖祖は参学し給ふ人と聞ゆ、何(いずれ)も不当なり。」まずこの注解には、すでに当時の天台教学の観念論を批判する立場が窺えるのである。天台教学の本覚門的解釈では、修行と関係なく「自己このまま直に仏じゃ」と解し、「即心是仏」の「即心」は意識の心と受けとり、最初の一文「仏仏祖祖、いまだまぬがれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり」を「いまだまぬがれず即心是仏のみなり」ということばの重さを無視して「即心是仏の道理を、仏仏祖祖は参学し給ふ人」と能所二見で解することの誤りを指摘している。この一文「仏仏祖祖、いまだまぬがれず保任しきたれるは」の文中、単に「仏仏祖祖、保任しきたれるは」でなく「いまだまぬがれず即心是仏のみなり」ということばの出処を深く洞察してゆかねばならない。それは仏仏祖祖もそこに置かれている空の場が「力の場」として仏仏祖祖の意志以前に働いていることである。つまり空の場の動力学が仏仏祖祖のもとから働いて、そこに保任が成り立っているということである。従って「仏仏祖祖」と「即心是仏」とは空の場の力によって保任せしめられて「一」としてあるということである。つまり「仏仏祖祖」は「即心是仏のみなり」「即心是仏」そのものであって、それ以外ではない。「仏仏祖祖の一人一人」が「是心是仏そのもの」だというのである。仏仏祖祖には我々の解脱の自己も含まれているので、別言すれば、仏仏祖祖の各々と解脱の自己と「即心是仏」という衆法合成の世界とが「一」としてあるということである。

 また、『御聴書抄』はそれに続けて、「即心是仏と云、即の字は只詞(ことば)、是仏と云ふ是も仏を差して云はむ料と聞えたり、非爾(しかにはあらず)。此即心是仏の即も心も是も仏も、をのをの究尽する道理、奥に委見たり。」つまり「即心是仏」は「即心」が「是仏」であると解するのでなく、「即」「心」「是」「仏」の一字一字が尽界究尽の道理だというのである。その上で序文の解説を加えて言い直せば、一字一字が無自性的に事事無碍法界をなして、互いに主従関係を自由にすることによって、それぞれが逆説的に尽々無尽に唯一絶対の尽界究尽の原事実としてあるということである。このことは究極的には一法究尽の行の論理として働くということである。こういう解釈は道元禅師のみのなしえた独創的解釈である。それ以上の詳しいことは後文にまかせて、次の一文、

「しかあるを西天には即心是仏なし、震旦にはじめてきけり、学者おほくあやまるによりて、将錯就錯せず、将錯就錯せざるゆえに、おほく外道に零落す。」もともと「即心是仏」は、馬祖大寂禅師の雲水たちへの説示のことばである。だから、ことばだけからすれば、「西天(インド)にはなく、震旦(中国)にはじめてきけり」ではあるが、「即心是仏」ということばの意味する実質は、西天・震旦の地理国土に関係なく実在していることは、「達磨不来東土、二祖不往西天」の「身土不二」で解することができる。つまりこれも空の場から発せられた表現であって、空の場においては、達磨も二祖もそれぞれその主体性を絶対否定されて、時空を超えて無限に開かれた絶対自由にある処、「尽界達磨」であり「尽界二祖慧可」である。だから最初から往来を越えて身土不二の達磨として、また二祖慧可として、「即心是仏」のことばならざる真実は、震旦だけに限らずいかなる場所においても絶対普遍的だというのである。ところが「学者」といってもこれは具体的には天台の教学のみならず華厳宗法華宗真言宗の観念的な教学者たちを指すのであろう。ことばのことばならざる原事実を知らないために、ことばに執われて「学者おほくあやまるによりて、将錯就錯せず、将錯就錯せざるゆえに、おほく外道に零落す。」ここで「将錯就錯」ということばは、道元禅師の独自な不能語である。それは文字通りでいうと、「あやまりを将ってあやまりに就く」ということであるから「あやまりばかり」という意味になるが、禅師の場合それを逆説的に肯定的に用いているのである。つまり「あやまりばかり」の外に「あやまりでないもの」はない、「尽十方界錯」として錯にあって錯を超えるという「解脱」の意味にとっているのである。『正法眼蔵』では禅師がしばしば「錯用心」(「仏性」の巻)とか「錯錯」(「行仏威儀」の巻)とか、あえて「錯」(あやまり)の用語で逆説的に真実の仏法を表現しようとする意図は、迷える衆生にも通ずるためあえてあやまりの罪を犯して衆生済度の同事行を行ずるため「迷中又迷」の大迷に徹する処に、真実解脱への転換を意味したものと推量される。この解脱はさらに翻転して、「一法究尽の錯錯」は「一法究尽の不錯」と表裏一体を意味することになる。こういう逆説的な用語の用法は禅師独特なもので、『啓迪』でも、「頭上安頭ずじょうあんず」とか「葛藤纏葛藤かっとうてんかっとう」とか「兀地に礙へらる」とか、この類である。ほかにも前述した「迷中又迷の漢」とか「大迷」とかもそうであろう。この「錯の一法究尽」としての「将錯就錯」は『御抄』では「只将錯就錯をば、唯仏与仏と可心得、即心是仏と心得べし、即心即仏と可心得」といわれているのである。後文で改めて説明するはずであるが、すべては一法究尽の行の論理に帰結してゆくのである。 

 さて、馬祖の「即心是仏」ということばは、馬祖下にいた大梅法常とのやり取りの中で「非心非仏」ともいわれ、また南泉は、さらに「不是心、不是仏、不是物(物は衆生の意)」と否定的に言い換えられている。しかしこれらの肯定と否定との互いに相反する異なった表現も、みな「われなし」の空の場(法界)非対象的な底無しの原事実そのものを直接的に言い表していることに変わりはない。以下の本文は、将錯就錯せざるゆえに、即心是仏の言をきいて、このままでよいのだと思う自然見の外道に陥る。以下はその外道見の提示である。

(二)

外道のたぐひとなるといふは、西天竺国に外道あり、先尼となづく。かれが見処のいはくは、大道はわれらがいまの身にあり、そのていたらくは、たやすくしりぬべし。いはゆる苦楽をわきまへ、冷煖を自知し、痛癢を了知す。万物にさへられず、諸境にかゝはれず。物は去来し境は生滅すれども、霊知はつねにありて不変なり。此霊知、ひろく周遍せり。凡聖含霊の隔異なし。そのなかに、しばらく妄法の空花ありといへども、一念相応の智慧あらはれぬれば、物も亡じ、境も滅しぬれば、霊知本性ひとり了々として鎮常なり。たとひ身相はやぶれぬれども、霊知はやぶれずしていづるなり。たとへば人舎の失火にやくるに、舎主いでてさるがごとし。昭々霊々としてある、これを覚者智者の性といふ。これをほとけともいひ、さとりとも称ず。自他同じく具足し、迷悟ともに通達せり。万法諸境ともかくもあれ、霊知は境とともならず、物とおなじからず、歴劫に常住なり。いま現在せる諸境も、霊知の所在によらば、真実といひぬべし。本性より縁起せるゆゑには実法なり。たとひしかありとも、霊知のごとくに常住ならず、存没するがゆゑに。明暗にかゝはれず、霊知するがゆゑに。これを霊知といふ。また真我と称じ、覚元といひ、本性と称じ、本体と称ず。かくのごとくの本性をさとるを常住にかへりぬるといひ、帰真の大士といふ。これよりのちは、さらに生死に流転せず、不生不滅の性海に証入するなり。このほかは真実にあらず。この性あらはさざるほと、三界六道は競起するといふなり。これすなはち先尼外道が見なり。

 以上の本文は、特に難しい表現はないので、箇条書きにしてその外道説を要約すれば、

①「即心」の「心」や、「是仏」の「仏」を「衆生の慮知念覚(第六意識)の未発菩提心」と受けとっていること。これは実は、当時の日本の天台教学を念頭においてそれを批判しているのである。若き道元が、「一切衆生悉有仏性」なら発心修証の必要はない、自己はそのままで仏だという天台教学に対する疑問は、中国で如浄禅師に会って解消した経緯がある。

②インドの先尼外道の見解としての「心常相滅」の思想である。これは当時の天台教学思想とも共通するものである。つまり大道としてのこの霊知は、「われらがいまの身にあり、そのていたらく(あり方)はたやすくしりぬべし。」いわゆる苦楽を知り、冷暖を弁じ、痛痒を了知し、内外の万物諸境に無関係で、物の相は去来し、境の事は生滅すれども、心内の霊知は常住にして不変である。この霊知はあらゆる有情に周遍して凡聖含霊何らの隔てがない。今はしばらく妄法の空華に迷って凡夫の姿はしていても、一念にでも霊知に相応した智慧が現れてくれば、事物も法境も滅し去って本来備わっている霊知の本性が了々として現れ、永久に不滅である。たといこの身相は敗壊しても霊知は壊することなく全く明らかに実在する。「たとへば人舎の失火にやくるに、舎主いでてさるがごとし。昭々霊々(霊もあきらか)としてある。これを覚者智者の性といふ。これをほとけともいひ、さとりとも称ず。」

③ただここで注意すべきことは、「いま現在せる諸境も、霊知の所在によらば、真実といいぬべし。本性より縁起せるゆゑに実法なり」の一文中、「いま現在せる諸境」の「いま現在せる」という現在の一点においては霊知と一であって、「真実にして実法」のはずであるが、「たとひしかありとも、霊知のごとくに常住ならず、存没する(あったりなかったりする)がゆゑに。その点で明暗にかかはれざる霊知とは別だといって、存没する諸境の相滅に対し心性の不生不滅の性海を特立し、「一念相応の智慧」の出現によって「本証をさとり」「不生不滅の性海に証入する」といわれている点で修証の必要をほのめかしている表現がうかがえる。ここで「(霊知に対して)一念相応の智慧あらはれぬれば」とはどういうことか。ここでの一念相応の智慧は、人間主体の絶対否定を介する般若智を意味するのではなく、第六意識の理性知以上のものではない。だから「菩提を菩提と会することも、菩提にとらわれた邪見」(「行仏威儀」の巻)を出ないのである。しかしその限りでの不徹底ではあっても何らかの修証は必要であろう。だから「本性をさとる」とか「不生不滅の性海に証入する」というのである。だから「この性(不生不滅の性海)あらはさざるほど、三界六道は競起する(きそい起こる)といふなり。」いわゆる霊魂不滅もその存在を信じ悟らなければ三界六道を迷い続けるというのである。しかしその信も悟りも霊知も真我も、覚元・本性・本体もそして帰真の大士もみなとらわれたものであるので、決して不染汚の般若智とはいえず、第六識の意識の次元でのことにすぎない。これは日本の天台教学の修証不要の説とは微妙な差が見出されるのである。

 さて、この先尼外道の説と通ずる教説が、次の節では中国の南方仏教にも存在しているということであるが、この辺で今までの外道見と仏法との相違を明らかにしてみよう。まず外道見は身は生滅するが「心」は生滅する身の中にあっても身の生滅に関係なく不生不滅のいわゆる「魂」として実体的に常住の存在である。ここで注意しておくべきことは、心には質的に異なる二種の心がある。一つは有限な心として身の生滅と一つに心も生滅する。この有限相対の心は表現の前面にいわれていないことである。つまり有限な心は有限な身と一つであり、身が死ねば心も死ぬのである。いわゆる肉体と精神とは一体だという意味である。この有限な身には、同じく一切諸法も含まれる。他の一つは心は心性とも仏性ともいわれ、前者の身心が生滅有限有相の現象的存在であるのに対し、不生不滅の無限にして永遠に変わらぬ常住の実体的存在である。これが「心常相滅」の思想である。両者は互いに生滅と不生滅と二見分別的に質的に異なる存在である。有限な生死の身にあって不生不滅の心性を何らかの修証によって、この不生不滅の心性に目覚めることが「霊知」「真我」「覚元」であり「さとり」である。しかしこの「霊知」は「実体」だといっても、本当は第六識の意識の産物に過ぎず、それの二見分別の妄想であることを知らないのが外道見だというのである。この第六識の意識を三世常住に不変なものと妄想しているのである。それに対し、真の仏法は、まず一切が真空の場に置かれていることを前提とする。この真空の場所とは、我々の自己の主体が絶対否定されてはじめて、何の障碍もない絶対自由の開かれた世界の現出を意味している。この空の場は見えざる動力学的な弁証法的論理性に基づいて、人間の決断とは全く無関係な、「絶対否定即絶対肯定」の力が働いている。いわゆる「大死即大活」である。一切のものは、この「大活」において、いたるところそれぞれが絶対中心(主)に位置づけられると同時に、他のものはすべて絶対中心の大活のもののもとに無自性的に摂められて、そのものを支え(従)主従関係を自由にすることができるのである。一切のもののそれぞれは、絶対中心として一法究尽として唯一絶対の事実そのものである。次の慧忠国師についての文言以下は、この一法究尽の唯一絶対のもの自身についての仏法の叙述になっている。

(三)

  注:(三)と(四)の本文は、すべて漢文で書かれたもので本来本文通り全文漢文で示すべきであるが、

     読者に読みやすくするため、ここでは書き下し文に改めたものだけを示す。

大唐国大証国師慧忠和尚問僧に問ふ、「何れの方よりか来れる」。僧曰く、「南方より来る」。師曰く、南方に何なる知識か有る」。僧曰く、「知識頗る多し」。師曰く、「如何んが人に示す」。僧曰く、「彼方の知識、直下に学人に即心是仏と示す。仏は是れ覚の義なり、汝今、見聞覚知の性を悉具せり。此の性善能く揚眉瞬目し、去来運用す。身中に徧く、頭に挃るれば頭知り、脚に挃るれば脚知る、故に正遍知と名づく。此を離るるの外、更に別の仏無し。此の身は即ち生滅有り、心性は無始以来、未だ曽て生滅せず。身生滅するとは、龍の骨を換ふるが如く、蛇の皮を脱し、人の故宅を出づるに似たり。即ち身は是れ無常なり、其の性は常也。南方の所説、大約此の如し。

 以下は「心常相滅」が先尼外道説で、仏法ではないことを、六祖の高弟である慧忠国師のことばを証拠として挙げられる。慧忠国師道元禅師が最も尊敬していた高僧の一人である。

 その慧忠国師が訪来の僧に問う、「何いずれの方よりか来る。」これは禅問答の常道である。平常の何でもない挨拶のことばの中に、「仏性をのこすところなくひっ提げて、僧の目のまえにころがし出して見せられた。」(『全講』) この世の一切の出来事はどこから来たのだ。「自己」はどこから来てどこへ去くのか、不生不滅より来たのか、生滅より来たのか、「心常相滅」の見解にかかわる根本的な問いである。古人は、「達磨東土に来らず、二祖西天に行かず」と道破した。去来のないところを去来して去来を解脱しているか。これらの問いはすべて「心常相滅」を破するための問いである。この「何れの処」が真の立脚地にならぬ限り、仏法にはならないのだ。六祖の「什麽物恁麼来」も「問処の道得」である。この僧は慧忠国師の意中に気づかず、ただ「南方より来る」と答えるだけだった。しかしこの「南方」という方向は、「東西南北」を融即する一方究尽の南方であったら、仏法になったかもしれない。しかしこの訪来の僧はそんなことは微塵も知らない。そのことは今はともかくとして、国師は「南方にはいまどんな善知識がおるかな」「沢山の善知識がおります。」こうして六祖の死後、国師の生きていた当時の南方の仏法の事情が語られている。この僧によれば、南方の指導者たちは、雲水が来さえすれば、「直下に(即座に)」「仏法は即心是仏だ」と示すという。その「即心是仏」の南方の指導者たちの解釈が以下の通り書き下し文である。

「仏は是れ覚の義なり、汝今、見聞覚知の性を悉具せり。」以下の文節は、

「此の性善能揚眉瞬目し、去来運用す。身中に徧く、頭に挃るれば頭知り、脚に挃るれば脚知る、故に正遍知と名づく。此を離るるの外、更に別の仏無し。此の身は即ち生滅有り、心性は無始以来、未だ曽て生滅せず。身生滅するとは、龍の骨を換ふるが如く、蛇の皮を脱し、人の故宅を出づるに似たり。即ち身は是れ無常なり、其の性は常也。南方の所説、大約此の如し。」

 内容は易しいので口語訳にすると、「即心是仏」の仏とは、自覚覚他の覚だ。(もともと仏には覚者としての人格的意味と覚(迷いから解脱する)という出来事として非人格的意味とがあるが、ここでは後者の意味。)汝今ことごとく見聞覚知の性を具す。(眼がものを見る、耳が音を聞く(「見聞」) 痛痒・冷暖・苦楽を弁える(「覚知」)ことができる本性をもっている。) しかしこの見聞覚知の性は、第六意識いわゆる二見分別心に過ぎない。仏法は「無分別の分別」、無分別自身の働きそのものが分別となっているのであるが、無分別でない単なる分別は妄識である。この見聞覚知の性、いわゆる霊知といわれるものは、「揚眉瞬目」(眉をつりあげ、眼をぱちぱちしてみせ)、「去来運用」(あちらに行き、こちらに来て、その意識が自由に働くのである)、その霊知が誰の身中にもどこにでも働いていて、頭を叩けば痛いと頭が知り(「頭に挃るれば頭知り」)、脚を払うと痛いと脚が知る(「脚に挃るれば脚知る」)。「どこにでもこの霊知がある。睡眠ねむっていても、蚊が刺すと掻く、霊知だけはねむらずにいる。」(『全講』) だからそれを「正遍知」というのである。(しかし真の正遍知は三藐三菩提(無上菩提)をいうので、ここでいう霊知とは全く次元が異なる間違った考えである。西田哲学でいうと正遍知(無上菩提)は「絶対無の場所」、第六意識は単なる「相対的な無の場所」に過ぎない。)「この霊知のほかに仏はない」という。明らかに妄想分別を仏と称しているのである。「此の身には即ち生滅有り。心性は無始以来、未だ曽て生滅せず。」(ここで注意すべきは、「身」と相対的な「心」を不生不滅を意味する「心性」と混同して用いている。これは後述する。)身は生滅するが、霊知は未だ曽て生滅にわたらない。三世常住だ。それのことを「心常相滅」という。身の生滅は、竜がその骨を換え、また蛇がその皮を脱するように、竜の骨や蛇のぬけがらの皮は生死するが、竜そのもの蛇そのものは死なない。また人の住む家は焼けてもその家に住む主人公は霊知としてそこから出て生死と無関係なものである。「即ち身は是れ無常にして其の性は常(常住)なり。」ここで、「身と心性」と「無常と常住」とをそれぞれ最初から分けて語っていることに注意しなければならない。それにくり返しになるが、身中の心と身の外の心(これを心性とも霊知とも言っている)とを実質上同一のものとしていることにも検討する余地が残されている。(これは後述。)「南方の所説、大約是の如し。」これが南方の善知識の所説であって、この心常相滅を悟った人が仏である。だからこの心常相滅の道理に徹底せよというのである。

(四)

師曰く、「若し然らば、彼の先尼外道と差別有ること無けん。彼が云く、「我が此の身中に一の神性有り、此の性能く痛癢つうようを知り、身壊する時、神則ち出で去る。舎の焼かるれば舎主出で去るが如し。舎は即ち無常なり、舎主は常なり」と。審しんすらくは此の如きは、邪正弁ずるなし、孰いかんが是とせんや。吾れ比そのかみ遊方せしに、多く此の色を見き。近いま尤も盛んなり。三五百衆を聚却あつめて、目に雲漢うんかんを視て云く、「是れ南方の宗旨なり」と。他の壇経を把って改換して、鄙譚ひたんを添糅てんじゅうし、聖意を削除して後徒こうとを惑乱す、豈言教を成らんや。苦哉、吾が宗喪ほろびにたり。若し見聞覚知を以て是を仏性とせば、浄名は応に「法は見聞覚知を離る、若し見聞覚知を行ぜば是れ則ち見聞覚知なり、法を求むるに非ず」と云ふべからず」

 師慧忠国師の言われるには、もしそうだとすると南方の善知識の説く所は、もともと『涅槃経』中にある先尼外道の見と同じではないか」と。先尼外道の言うには、我が身中には一つの神性(霊知)があって、この神性がよく痛痒を知り、たとい身は死んでも、神(霊知)は身から出てしまう。ちょうどそれは、火事で家が焼けても、舎主はそれから出で去って焼け死ぬことはないようなものである。家は無常だが、舎主の主人公は有常である」と。「審すらくは此の如きは邪正弁ずるなし。」このような南方の知識の言うことと仏正法とはどこがどう違うか、それを明らかにすることが一向にできていない。「孰んが是とせんや」どのようにしてこれを是正しようやと。そしてさらに国師は次のように嘆いていうのである。私が曽て地方を遊説した折、そのようなことをいうものが多い(「多く此色(たぐい)を見る」)。特に六祖師匠の御遷化後の近頃はこの外道見が最も盛んになってきている。その外道が三百人や五百人の修行者たちを集めて「目に雲漢を視て」(天の一角をにらんで)、わしだけ悟ったというような慢心を起こして、「南方の仏法はこうだ」というのである。その慢心から、『六祖壇経』(六祖が戒壇で説戒されたものの筆記集、天桂伝尊の『海水一滴』はそのすぐれた注解書)の六祖の説を勝手に書き換えたり、鄙俗な話を添え加えて、六祖の聖意をかき消して、若い人たち(「後徒」)を誤らせている。そのようなもののいうことは言教として当てにならぬ。(「豈言教を成らんや」) 「苦哉、吾が宗喪びにたり。」(苦々しいことだ。吾が宗、真の仏法は滅びてしまったことだ。)

 「若し見聞覚知を以て、是れを仏性とせば、浄名は応に『法は見聞覚知を離る、若し見聞覚知を行ぜば是れ則ち見聞覚知なり。法を求むるに非ず』と云ふべからず。」

 文中「浄名」とは、『維摩経』の主人公であって、釈尊の有力な在家の高弟である。ここで「法」とは「仏性」であり、「第一義空」である。それに対し「見聞覚知」とは、分別心であり妄識妄心である。この分別心の直下に、無分別心がある。いわゆる般若知である。あらゆる意識のもとには、空の場として非対象的な「非‐意識」がある。いわゆる空の場を離れたものは、見聞覚知に限らず、すべて妄心妄識であって、空の場の動力学によって「絶対否定即絶対肯定」されたものが、無分別の分別という「般若後得智」である。見聞覚知は、第六意識として先尼外道や南方の知識の見解であって、生滅するもの二見分別として妄識であるのに対し、法とは「不生不滅にして生滅」という絶対矛盾的存在である。「絶対とは対を絶したものであると同時に、何かに対してあるものでなければならない。」(西田哲学) 。空の場において、絶対否定を介して逆説的に絶対肯定された個々のものは、対を絶して「尽十方界妙有」(場所的有)である。それは唯一的絶対であると同時に、他の唯一的個に対して相対するもの(我と汝と彼)でなければならない。(「人体(有)はたとひ自佗に罣碍せらるといふとも、尽十方界なりと諦観し決定するなり。」(「身心学道」の巻)) ここで注意すべきことは、「見聞覚知」は、空の場を離れている限り妄心妄識であり、生滅するものであるが、だからといってこの見聞覚知という分別心(慮知心)そのものは全く価値のない否定さるべきものではない。なぜなら、「発菩提心」の巻には「この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。この慮知心をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知心をもて菩提心を起こすなり。」とある通りである。そこに慮知心即(非)菩提心という逆説がある。これは空の場においてのみ成り立つのである。「仏縛といふは、菩提を菩提と知見解会する、即知見、即解会に即縛せられぬるなり。」(「行仏威儀」の巻) 菩提心の徹底は逆対応的に慮知心の妄識である。「執坐相とは、坐相を捨し、坐相を触するなり。」(「坐禅箴」の巻) 正身端坐の行の徹底は「捨坐相」として四威儀の平常底ともなるのだ。「思量分別をもって思量分別に非ざる般若を悟る、これが修行である。この妄心を除いて教行証もできぬ。この妄心が一番必要だ。妄心をもって妄に非ざる真心を明むるのである。」(『啓迪』) ここをもって「生死即涅槃」という絶対否定を介した逆説も生きてくる。「真の生死」とは「生死即涅槃」においてであり、真の涅槃(菩提)とは「生死即涅槃」「煩悩即菩提」においてである。

(五)

大証国師は曹谿古仏の上足なり、天上人間の大善知識なり。国師のしめす宗旨をあきらめて、参学の亀鑑とすべし。先尼外道が見処としりてしたがふことなかれ。近代は大宋国に諸山の主人とあるやから、国師のごとくなるはあるべからず。むかしより国師にひとしかるべき知識いまだかつて出世せず。しかあるに、世人あやまりておもはく、臨済・徳山も国師にひとしかるべしと。かくのごとくのやからのみおほし。あはれむべし、明眼の師なきことを。

 この大証国師は、六祖大鑑慧能(638-713)の高弟として、青原・南嶽に並ぶ南陽慧忠(?‐775)のことである。「天上人間の大善知識なり。」この偉大な指導者の言葉の根幹にある大切な趣旨を明らかに受け止めて「参学の亀鑑(手本)とするべきであると説かれ、南方の知識の言うことは先尼外道の見解だと知って、追随していってはならぬと戒められる。近代宋朝の二百年来、諸山の住持職と称する多くの人たちは、「国師のごとくなるはあるべからず。むかしより国師にひとしかるべき知識いまだかつて出世せず。」先尼外道の見と、仏正法との区別を明らかに知っている明眼の師はいない、それだけ仏法が衰えたからこういわれるのだ。ところが「世人あやまりておもはく、臨済(黄檗の法嗣)や徳山(龍潭の法嗣)国師にひとしかるべしと。かくのごとくのやからのみおほし。あはれむべし、明眼の師なきことを。」

注:

参考までに言えば、「近代は大宋国に」以下「あはれむべし、明眼の師なきことを。」までは底本にない。おそらく臨済・徳山を批判的に見ている処を後人が削除したものなのであろう。岩波文庫(水野校訂)には、「七十五巻本により補う」となっている。なお臨済・徳山の仏法に対する道元禅師の批判的見解については、『正法眼蔵』の処々に見出される。禅宗史からいえば、

南嶽の弟子が馬祖、馬祖の弟子が百丈、その百丈禅師までは只管打坐が伝わっていたが、その百丈の弟子の潙山霊祐(いさんれいゆう)に至っては、彼の著述「警策(きょうさく)」には、「悟りをもって則(のり)となす」とあり、道元禅師当時の坐禅は仏行でないことになっていた。その中でただ如浄禅師だけが、大悟を求めず、作仏にも要はない、ただ坐禅になる坐禅のみを勧めていた。道元禅師はこの如浄禅師の坐禅になる坐禅を学び行ぜられたのである。その点では、大証国師の仏法は臨済・徳山・大潙(だいい)・雲門(うんもん)等のおよぶところにあらずといわれているのである。私見によれば、彼らには悟り体験が強調されすぎて、衆生済度の同事行の提示が軽視されている。ここでは、この問題は今後の課題として受け取っておく。

 

いはゆる仏祖の保任する即心是仏は、外道二乗ゆめにも見るところにあらず。唯仏祖与仏祖のみ即心是仏しきたり、究尽しきたる聞著あり、行取あり、証著あり。

 「いはゆる仏祖の保任する即心是仏」は、これは最初の「仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり」に照応する。「仏祖」は保護する人、「即心是仏」は保護される仏あるいは仏法と受けとられがちだが、それでは二物対待の二見分別になってしまう。ここでは「仏祖の身のこらずが即心是仏だということだ。」(『全講』) だから二見分別の「外道・二乗のゆめにも見るところにあらず。」いわゆる「心常身滅」ではない。凡夫・二乗の身心は共に「生滅するのみ」、仏法の身心は、尽界身尽界心(性)であり、空の場における無自性として「不生滅の生滅」である。次に「唯仏祖与仏祖のみ、即心是仏しきたり」という。ここで「唯仏祖与仏祖」というのは、「ただ仏祖と仏祖と」と複数の仏祖として読むのではない。これは「妙法蓮華経方便品」に「唯仏与仏乃能究尽諸法実相」とあるその「唯仏与仏」である。この経文を書き下し文にすれば、「唯だ仏と仏と乃いまし能く諸法の実相を究尽したまえり」である。この経文の「唯仏与仏」を道元禅師は「唯仏祖与仏祖」と書きかえているが、両者の間にことさらの相違はない(両者の差異については後文の解説参照)。もともと「唯仏祖与仏祖」とは、「証嗣証契」する師匠と弟子との両者の間柄を意味するのであるが、宗意の立場からは、師匠と弟子とは二面裂破(二見超越)して、「唯仏という仏のみ」あるいは「与仏という仏のみ」として、尽界にただ一人のみ、その外に他者なしの唯一的絶対的な一人のみとして読ませているのである。それは「即心是仏」の一字一字が互いに主従の相入関係にあったように、「唯仏」を中心とすれば「与仏」は「唯仏」の一仏に融即相入して「唯仏ぎり」、「与仏」を中心とすれば「唯仏」は「与仏」一仏の中に相入して「与仏ぎり」。ここでいう「与仏」は広くとって尽十方世界の「一切諸仏」あるいは「一切衆生」をも含意している。従ってこれは序論で言及しておいたように、空の場(仏法)においては、この「一仏」が「尽十方世界」と一なのである(さらに我々の自己(衆生)とも一であることは後文参照)。つまり仏祖のいちいちが「唯仏祖」という仏だ。あるいは「与仏祖」という仏だとみて、尽界にかけがえのない唯一的な絶対的な仏祖を指しているのだ(事事無碍法界の一々の仏祖(後述))。さて「唯仏祖与仏祖のみ即心是仏しきたり究尽しきたり」の一文中、ここでの「即心是仏」は、即も心も是も仏もそのいちいちが「即心という時は尽天尽地即心、即仏という時は法界みな即仏である。純一無雑でそれがそれじゃ、法界は即心是仏(のいちいち)で尽きる。」(『啓迪』) 実は「将錯就錯」も「全界錯錯」(尽十方界錯)の道理で、「即心是仏」も「唯仏祖与仏祖」も「将錯就錯」も空の場(尽十方界)においていちいちの唯一的非対象的な無自性的同一事実を指示している。従って「仏祖が即心是仏を行じているというのとはまるでちがう。仏祖がたのみが即心是仏しきたり、その全身が即心是仏に現成してしまったのだ。」(『全講』) その即心是仏が絶対待的に即心是仏を聞著す(この「聞著」には教と信とが含意されている)、そして同時に即心是仏が即心是仏を修証し、仏祖の一切が即心是仏で尽きている。このほかに仏祖はない。みな教行証の仏祖である。教行証でない仏祖はない。

補注:

ついでながらこの法華経の一文「唯仏与仏乃能究尽諸法実相」は宗意の読み方からすれば、主賓や能所の二見分別で読むのではなく、「唯仏与仏」の読み方と同様、「乃」と「能」も、「究」と「尽」も、そして「諸法」と「実相」も、互いに「唯仏」と「与仏」との主従関係として、自由に相入し合って、所詮はそれぞれ「一仏」に帰結して重々無尽の「事事無碍法界」を説示することになるのである。(参照「唯仏与仏」・「諸法実相」の巻)

(六)

「仏」百草を拈却しきたり、打失しきたる。しかあれども丈六の金身に説似せず。

「即」公案あり、見成を相待せず、敗壊を廻避せず。

「是」三界あり、退出にあらず、唯心にあらず。

「心」牆壁あり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず。

 この「即心是仏」はどの一字からも主従関係の順序を自由にし得るので、ここでは「即心是仏」の「即」からではなく「仏」から仏を絶対中心として他はすべて無自性的に仏の一字に融即して絶対的仏の現成に摂せられる。つまり「仏百草を拈却しきたり」が「仏」、「即公案あり」が「即」、「是三界あり」が「是」、「心牆壁あり」が「心」。これによると「仏即是心」で「即心是仏」の順ではないが、その順序は自由でかまわない。四字ともそれぞれ唯一的絶対事実としてあるということである。

 まず、「仏百草を拈却しきたり、打失しきたる。しかあれども丈六の金身に説似せず。」この「仏百草」はもともと「一茎草を拈じて丈六の金身(釈迦牟尼仏)と為す」という語から出たことばである。もともと「即心是仏」とは「空の場における無自性」を意味するから、百草万象が直に仏で、「拈却しきたる」とは百草を有(色)と拈じ取ってきても、「打失しきたる」百草を無(空)と捨て放ってきても、仏百草という限り、有無取捨の能所を超えて、仏百草は仏百草で絶対待の絶対自由な独立のあり方だ。だからもとの詞のように「丈六の金身」とは決して対せず、それを「説似」(説示)せずという。「この百草が直きに(即心是)仏だから、丈六身というありがたそうなものと比較して見るは無用じゃと。これを見よ、人人この百草の仏に面会ができるか、もし「百草仏」が見えれば丈六身も見える。さてこの仏を知れ、徧界不覆蔵じゃ」(『啓迪』) それが有無浮沈を超脱した仏百草だ。

 「即公案あり、見成を相待せず、敗壊を廻避せず。」これは前の「仏百草」と同じ趣意だ。「公案」とは実相・三昧王三昧・仏如来のこと。一切の「もの」(万象)があるがままの法位にあるということは、自己の脱落身心における「王三昧」の王位のもとにあるということである。それを「万象之中独露身聻にい(長慶慧稜のことば)という。その「独露身」とは絶対的に自ら露わなることとしてのその実存の真理である。一切のもの(万象)が同じ一つの世界(尽十方世界)を形成するように聚められるところ、その世界さえ蔵身せしめる絶対独立唯一的な独露身ぎり(聻)の実存である。これが「即公案」である。だからこの「独露身」(公案・実相)の外に相待する「見成」(万象)もない。「敗壊を廻避せず」どんな敗壊断絶も関係なし。それが絶対待の実存である。いいかえれば、この絶対待の脱落身心の実存は、それ自体不生不滅の事実としてそのもとに、生滅(「見成」の生と「敗壊」の滅)の一切はそこに円融して、その外に生滅はない。「見成を相待せず、敗壊を廻避せず」プラスもマイナスも有無ともに「即公案」のもとに聚められた二見以前の「即公案」である。生滅を超えた不生不滅であると同時に、不生不滅による生滅である。だから二見分別的な「心常相滅の外道見」はたたなくなる。互いに相入関係にあって、「不生不滅」ぎり、「生滅」ぎりだ。

 「是三界あり、退出にあらず、唯心にあらず。」これは「如来如実に、三界の相は生死若しくは退若しくは出に有ること無く、亦た世に在るものも及び滅度する者も無く、非実非虚、非如非異を知見して、三界の三界を見るに如かず(「不如三界見於三界」)。」(『法華経』「如来寿量品」) からの引用。「是」とは三界のこと(注)。三界というとそこからの出離を連想するが、それでは二見分別になる。「生死即涅槃」だ。三界のときは三界ぎりになることが解脱(「三界の三界を見るに如かず」)。それから「唯心にあらず」、前の「退出にあらず」が生滅にあらずなのに対し、「唯心にあらず」は不生不滅にあらずだ。「三界唯心」(後述)という分別なし、三界のときは三界ぎり、これが空の場における絶対自由の道。

注:三界とは欲界・色界・無色界の三つの総称。〈欲界〉は欲望にとらわれた生物が住む境域。〈色界〉は欲望は超越したが、物質的条件(色)にとらわれた生物が住む境域。〈無色界〉は欲望も物質的条件も超越し、精神的条件のみを有する生物が住む境域。生物はこれらの境域を輪廻する。法華経譬喩品にでる〈三界火宅〉とは迷いと苦しみのこの境域を、燃え盛る家にたとえたもの。(『岩波仏教辞典』)

補注:

 ここで言われている「三界唯心」は「是三界」の説示として三界の一法究尽を意味しているが、この「是三界」の本文とは別に、「三界唯心」という一語の本来の宗意を念のために確認しておこう。

 『正法眼蔵』「三界唯心」の巻には以下のような一文がある。

「三界唯一心、心外無別法。心仏及衆生、是三無差別。」

この一文は普通の教意から言えば、三界のすべてが一心におさまる。一心が三界へと分節してゆくものと解されている。しかし宗意では、空の場から回互的相入関係によって解されているのである。すなわち、欲界・色界・無色界の三界の一界一界は、どこからでも主従関係を自由にし、例えば、欲界を中心とすれば、他の界はすべて欲界の中に円融して欲界ぎり、他の二界も同様な関係にあり、それぞれが唯一心だと解するのである。この「即心是仏」の巻の「是三界」では、「三界」と「唯心」との二見分別を超えて「三界ぎり」と解しているが、「三界唯心」巻では、更にこの三界も互いに相入関係を自由にすることによって行的に一界一界ぎりに究極するわけである。

 次の「心仏及衆生、是三無差別」も、心・仏・衆生が根底的に無差別だというのではなく、心・仏・衆生の一一が無自性にして回互的相入関係にあり、「(尽界)心ぎり」「(尽界)仏ぎり」「(尽界)衆生ぎり」と事事無碍法界的に解するのである。これが二見分別を超えて行的論理に徹してゆく道である。後文に挙げている「一心一切法一切法一心」の読解と通じてゆく道である。

 

 「心牆壁あり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず。」これはもともと慧忠国師のことばによる。「僧問う、如何なるか是れ古仏心。慧忠国師いわく、牆壁瓦礫しょうへきがりゃく。」空の場においては、古仏の心も牆壁瓦礫の一つ一つも、絶対否定のゼロ点を介して互いに相入関係(逆対応)になる。そこでは古仏の心も、牆壁瓦礫の一つ一つに円融して、牆壁瓦礫のいちいちの絶対的唯一的な真実の個物になること、これを「尽十方界牆壁瓦礫」という(正確には尽十方界牆、尽十方界壁、尽十方界瓦、尽十方界礫)。だから空の場を離れたふつうの牆壁瓦礫のように、泥に水を混ぜて造られたものではない。(「いまだ泥水せず、いまだ造作せず」)

 これで「即心是仏」の解釈は一応済んだが、「百草」も「三界」も「公案」も「牆壁」も、「即心是仏」の一字一字に自由に取り換えて言うこともできる。空の場においてはすべてが無自性で、本文中の「仏百草」「即公案」「是三界」「心牆壁」を例えば、「即百草」「仏公案」「心三界」「是牆壁」というように、どのようにでもこれを各々入れ替えて続けて解することができる。しかも「即心是仏」の四文字のうち、どの一文字からも唯一的な絶対中心になることによって、他の文字を自由に主従関係に置くことができる。例えば、「即」の一字を絶対中心とすれば、他の三文字は「即」の一字に即融円融して「即」の中心的一字のもとにあって、それを支えることになるわけである。だから「即心是仏」の即も心も仏も是も、みな尽界・法界・尽十方界で底が抜けているのだ。これが「尽十方界真実自己」の参究になる。

(七)

あるひは「即心是仏」を参究し、「心即仏是」を参究し、「仏即是心」を参究し、「即心仏是」を参究し、「是仏心即」を参究す。

 前文までは、法住法位の不回互で各々独立の動的関係にあったが、この一文は反対に変転自在に円融した、法超法位の回互的関係にあることを示している。円融の上から言えば、どのようなところに住してもよい。「それだから一仏一仏がどのように入り組んでも、どのようにその位置をかえても、その位置、位置にあまんずることができなければ、衆生済度をすることはできない。」(『全講』)

 

かくのごとくの参究、まさしく即心是仏、これを挙して即心是仏に正伝するなり。かくのごとく正伝して今日にいたれり。

 「かくのごとく」とは、「回互と不回互と、参と同と、区別と平等と、まことにそれがよく調和する。その参究だ。それはまさしく釈迦牟尼仏が弟子の迦葉尊者につたえたのではない。師匠があって、それが弟子に伝えられたのではいかぬ。」(『全講』)

 まさしく「即心是仏、これを挙して即心是仏に正伝するなり。」とは、「即心是仏」とはこういうことだと、そのときその場をはずさず、間髪をいれずに師匠の「即心是仏」が弟子の「即心是仏」にさずけるのだ。これが「将錯就錯」だ。師匠と弟子とが二面裂破してともに「即心是仏そのもの」となり、「即心是仏そのもの」が思わず言葉となってあらわれてくる。この真実の逆説(無分別の分別・不言の言)を「将錯就錯」というのだ。

 くり返し言うことだが、「即心是仏」とは世界内の師匠と弟子の間の次元ではなく、両者の主体が絶対否定された空の場における「即心是仏」と「即心是仏」との互いの相入円融の関係である。「以心伝心」が「以心伝心」にとどまっている限り、それも一種の人間のはからいである。そのような人間次元のいかなるはからいをも超えた「即心是仏そのもの」のはからい(「不言の言」)、つまり、「即心是仏ぎり」となること、それが「まさしく即心是仏、これを挙して即心是仏に正伝するなり。」それが「錯の一法究尽」としての「将錯就錯」である。これを「正伝」というのである。「かくのごとく正伝して今日にいたれり」である。

(八)

いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法一切法一心なり。このゆゑに古人いはく、「若人識得心、大地無寸土(若し人、心を識得せば、大地に寸土無し)。」しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落がいてんぼくらくし、迊地裂破そうちれっぱす。あるいは心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます。

 この正伝しきたれる心とは、後文の「即心是仏、不染汚即心是仏なり。諸仏、不染汚諸仏なり。」というところまで続いている。

「いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法一切法一心なり。」

 実はこの一文が「即心是仏」の巻を正しく解読するための重要な鍵になっている。というのは、端的に「一即一切」「一切即一」というテーゼは、仏教のみならず、古代ギリシアソクラテス以前から中世のキリスト教イスラム教、そして儒教老荘思想に至るまで、宗教思想の根本にして根源にかかわる重要な問題だからである。

 今までのところでインドの先尼外道や中国の南方地方の仏教に広まった「心常相滅」の思想は、正法としての仏教思想以外の西欧思想一般にも見られる共通の思想傾向である。つまり「一即一切」「一切即一」という思想の根源に関わるこのテーゼは、正法の仏法と他の宗教思想との間では異なる意味を含んでいるのである。その質的違いは端的に言えば、正法としての仏教以外の諸思想の根本であるこのテーゼ(「一即一切」「一切即一」)が、(存在者)の体系による観想の立場から解されるものであるのに対し、正法の仏法のそれは、どこまでも「有即無」「無即有」という空の立場から解されるのである。換言すれば、前者の「一即一切」「一切即一」の「一」も「一切」もともに対象的な有として、意識的な自己によって観想された思想なのである。それによってすべての存在するもの(一切)が一つの中心(円の中心=絶対的一)に統一され集められた世界である。そこでは絶対的一に収斂しない、万有の多と差別とを捨象したようなものとして考えられている。

補注:

尤も現代の西洋思想は、今までの西洋思想史からみると、ニーチェ以来、むしろ実体的な存在秩序に対する疑問や批判から、その存在解体(無化)の思想が急速に勢力を増し、実存主義を経て、現代のポスト・モダン哲学に至っている。その点で仏法の空の根本思想に近づいていると感じられるのは見逃すわけにはゆかないと思う。

 それに対し正法としての仏法は、空の立場から一切法の一々のそれぞれが、いかなる例外も、いかなる捨象もなくその「如実なる有」(イマ・ココに現前しているありのままの有り方)において絶対に独立独自の唯一的存在でありつつ、同時に一切のものが互いに主となり従となるという回互的相入関係をなしている。こういう関係が成り立つのは、空の場において、すべてが無自性的に、「有即無、無即有」という無限に開けた自由の内にあるからである。空の場に働く動力学的弁証法が「絶対否定即絶対肯定」として、自己に直接的に回互的相入関係をなしているのは、根本的に人間主体の絶対否定のゼロ点においてはじめて可能なのである。この絶対否定のゼロ点(無)になりきることによって、却って真の有が絶対肯定的によみがえるのである。それは人間主体に即していえば、「大死即大活」ということである。この空の場において、イマ・ココに現前する個としての有は、いかなる他にも代えがたい、絶対的に独立した唯一的な如実の個として働くのである。

 これは仏法の行的読解において大変重要な行文なので、後文に先立ってこの「正伝しきたれる心」について改めて言い直してみるなら、この「心」とは、「仏心」・「心性」・「実相」という意味であり、「仏性」・「真空」・正法眼蔵涅槃妙心・摩訶般若波羅蜜多と同意である。それは非対象的な無自性として、「有即無」「無即有」あるいは「有常即無常」「無常即有常」また「一刹那即永遠の絶対現在」として、そのつど絶対自由の純活動をなしている。従ってそれは、単なる理念的固定的な理体ではなく、個々の独立したイマ・ココの存在の根底にあって、この心(一心)とこの独一的個の存在事実とその個のもとに摂められた一切法(世界)とが動的な一としてあるという事態である。空の場においては、心も個も一切法としての世界も、それぞれ尽十方界の無底の絶対事実なのである。それは空の場における「事事無碍法界」を意味している。この「心」のもと、いわば「真空の場」において(注)、絶対無の一心と、自己を含めた独立無二の絶対中心(主)としての個的存在と、そのもとに摂められた(従としての)世界(一切法)の存在とは、同時的である。「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時々なり。」(「有時」の巻)

注:「一心一切法」の「一心」は、正法の空の場としては何らかの固定的実体や原対象を意味するのではない。それはそれらを超えて、どこまでも無底的な非対象的な絶対無である。それは根源的開け、絶対自由の開けである。

 ここまでの処は非常に複雑で容易に解し難いが、我々の自己のゼロ点に立脚して、そこから空の場の動力学の自由な展開を見れば、容易に理解されるはずである。たとえ理解が困難であっても、後文の参究を続ける中で、それも解消されるものと思われる。「いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法一切法一心なり。」という重要な一文の意味の参究は、「応無所住而生其心おうむしょじゅうにしょうごしん(応に所住無くして、而も其の心を生ず)(「金剛般若経」)の中の、「応無所住」が「一心」、「而生其心」が「一切法」だ。しかもここに含意された一心と一切法との回互的関係にもとどまらずそれをも超えて、最終的には不回互的に尽界一心・尽界一切法のいちいちに究極するのだ。

 「このゆゑに古人いはく、「若し人、心を識得すれば、大地に寸土なし。」」これは空の場からの説示である。しかも心を尽界の中心(主)とすれば、大地は心のもとに従として相入して微塵の土もない。従って一心一切法という必要もなし。不回互的に一心のみ。尽十方界一心のみだ。しかし空の場では、「絶対否定即絶対肯定」の回互的相入の動力学的関係だから、ひっくり返して「識得大地全身無寸心」。一寸の心もない。そのときは尽十方界大地のみだ。これで大地と心と全く絶対矛盾的自己同一だ。

 「しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落(天のこらず心の中にぶち落ちて、蓋天が心きり)し、迊地(大地のこらず)裂破(ぶっ裂ける)す。」心そのものとなって心を会得すれば、尽十方界心ぎりということ。心のほかに一切法(大地)なし。心の不回互性だ。心が常住であれば、一切法(全世界)が常住だ。身(個)と心(心性)と世界(土)と一つ。「身土不二」ともいう。だから「心常相滅」はない。

 「心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます。」空の場からだから、「心を識得す」ということは、心のゼロ点である絶対否定に徹すれば、逆に大地の絶対肯定が現成する。それを「大地さらにあつさ三寸をます(大地が三寸たかくなる)」と表現したわけである。尽大地のみということ。つまり「尽心」も「尽地」も絶対矛盾的自己同一。それぞれ事事無碍法界である。

(九)

古徳いはく、作麽生ならんか是れ妙浄明心。山河大地せんがだいち、日月星辰にちがつせいしん

 ここで「古徳」とは潙山の問いに対して仰山の応答である。これは理性の立場からの主語と述語の問答に尽きない。やはりこれも空の立場からの無自性による互いの相入関係だと見なければならない。前文で「心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます。」という言葉に対応する。まず潙山の「作麽生ならんか是れ妙浄明心」の「作麽生ならんか是れ」は、いかなることが妙浄明心(大清浄なる心、仏祖の心)と尋ねたように聞こえるが、そうではなく、いかなるものもみな「妙浄明心」だ、だから「即心是仏」からいうと、「心」を絶対中心にしたとき他の「即」も「是」も「仏」も「心」のもとに摂められてただ「心」のみ、いかなるものも「妙浄明心」の一法究尽だ。ところが、それは空の場の相入関係によって、逆説的逆対応的に「山河大地、日月星辰」のみだ。ともに無自性であるから妙浄明心と山河大地・日月星辰の仕切りがとれてしまう。それが「一心一切法一切法一心なり」だ。しかしこの「一心一切法一切法一心」という回互性は、尽界一心(妙浄明心)と「いまここ」に現成する尽界山河・尽界大地・尽界日月・尽界星辰、つまり尽界一切法の一々の絶対的事実との回互性を意味する表現となるのだ。

あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。しかあれども、この道取するところ、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり。

 この一文、どこに立って「あきらかにしりぬ」なのか。繰り返しいうことだが、これは世界内の理性の立場から発言しているのではない。どこまでも空の場に立って、一切無自性の相互の相入関係(逆対応的関係)の動力学からの回互・不回互の表現である。だから、本文「心とは山河大地なり、(心とは)日月星辰なり。」は回互的相入関係の表現だ。「しかあれども、この道取するところ」というのは、相互の回互的関係にとどまることなく、不回互的関係に徹底すること。だから「すすめば不足あり、しりぞくればあまれり」とは、行的表現として「一方を証するときは一方はくらし」「すすめば」とは「心を主として心を証するとき、」一切法(山河大地・日月星辰)はくらし(「不足あり」)。「しりぞくれば」とは「心が他方(山河大地・日月星辰、つまり一切法のこと)に従となって蔵身すれば、ということ。だから互いに回互から不回互への転換である。「尽界心」に逆対応の「尽界一切法」である。その場合は、一切法のみ(「あまれり」)

山河大地心は山河大地のみなり。さらに波浪なし、風煙なし。日月星辰心は日月星辰のみなり。さらにきりなし、かすみなし。生死去来心は生死去来のみなり。さらに迷なし、悟なし。牆壁瓦礫心は牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。四大五蘊心は四大五蘊のみなり。さらに馬なし、猿なし。椅子払子心は椅子払子のみなり。さらに竹なし、木なし。かくのごとくなるがゆゑに、即心是仏、不染汚即心是仏なり。諸仏、不染汚諸仏なり。

 以下の文言は、みな空の場から、心と一切法(世界)と逆対応的に一つ、それから文言の表面には表現されていないが、個々の実在に即して、事事無碍法界が含意されているのである。そしてそれらが、「心常相滅」の外道見(二見分別)でないことも肝に銘じておかなければならない。

 まず、「山河大地心は山河大地のみなり。さらに波浪なし、風煙なし。」「山河大地心」とは空の場における「山河大地」と「心」と相入関係を意味するから、山河大地(世界)に心は相入円融して、「山河大地のみなり」尽界山河大地のみ、ということ。もちろん尽界も山河大地に円融してその外に尽界もなし。だから尽界のうちの「波浪」も「風煙」も「さらになし」である。文言には表されていないが「山河大地」という世界と「山」と「河」と「大地」とは互いに相入する主従関係をなして、イマ・ココに現成する「絶対の山」「絶対の河」「絶対の大地」として、「世界」と一であり、「心」と一である。

 「日月星辰心は日月星辰のみなり。さらにきりなし、かすみなし。」これは前文と同じ発想。つまり「日月星辰」(世界)と「心」と一、日月星辰の外にそれ自体として「きり」も「かすみ」も「さらに(全く)なし」である。イマココに現前する個々の日と月と星辰の絶対的存在も、心と世界と一である。後に続く文言も全く同様である。「生死去来心は生死去来のみなり。さらに迷なし、悟なし。牆壁瓦礫心は牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。四大五蘊心は四大五蘊(注1)のみなり。さらに馬なし、猿なし(注2)。椅子払子心は椅子払子のみなり。さらに竹なし、木なし。」前文と同様の発想なので、これ以上の説明は省くが、それぞれすべてに解脱の自己が含まれているのである。要は心と世界と個々の実在とは一であって、「心常相滅」という二見分別の外道見にあらず。

注1:「四大」とは、地・水・火・風の四元素、人体もこの四大からなる。

    「五蘊」とは、色・受・想・行・識の五種の集まり。人間の肉体と精神の集合体をいう。

注2:「意馬心猿」 欲情で心が惑い、抑えつけられないこと。

 「かくのごとくなるがゆゑに、即心是仏、不染汚即心是仏なり。諸仏、不染汚諸仏なり。」即心是仏は即心是仏きり。「一心一切法一切法一心」とはまだ回互的で二見分別の跡が残っている。「理事無碍法界」も同様である。従って「一心は一心きり」「一切法一切法きり」という不回互の一法究尽の「事事無碍法界」に究尽するが、しかもなお「信心銘」(三祖僧璨)には次の四句があって、全編の骨子となっている。

二は一によって有り

一もまた守ることなかれ。

一心生ぜざれば。

万法咎とが無し。

「有無などいう二は元来絶対一または絶対無のゆえに有るのであるが、この一も一として守られてはならぬ。そうすると、一はまた二となる。一心さえも生起してはならぬ。それがなければ万法――個多の世界――はそのままでなんらの過失もないのである。現実の世界はそれなりに肯定してよいのである。」(鈴木大拙『禅の思想』春秋社)  つまり「絶対的一」または「絶対無」あるいは「絶対空」の対象化からも脱落して、絶対自由の世界を生きるのである。

補注:

この一例は、趙州の有名な公案(『碧巌録』第45則)が参考になる。

問う「万法一に帰す、一何いずれの処にか帰する。」

州いわく、「我れ青州に在りて一領の布衫※を作る、重きこと七斤」  ※ふさん。一枚の布

仏法は一領の布衫として一法究尽的に現成していて、塵々三昧の「布衫のみ」であるが、この一領の布衫でさえ、空においては、固定化され、停滞化されるべきではなく、無窮の否定による刻々新しい「事」の現場の現実が常に動的に働いている。(拙著『正法眼蔵「仏性」参究』401-2頁参照) その無窮の否定と肯定が、ここでいう「不染汚」の意味である。

「即心是仏、不染汚即心是仏なり。諸仏、不染汚諸仏なり。」

「ただ此の不染汚、是れ諸仏の所護念なり、汝もまた是の如し、吾もまた是の如し、乃至西天の諸祖もまた是の如し」(「行仏威儀」の巻 六祖が南嶽に言った語)

(十)

しかあればすなはち、即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは即心是仏にあらず。

 これは、「心常相滅」だけでなく、心が慮知念覚の意識そのものを意味している外道説に対してもその反論を挙げている。仏法のいう「心」とは、そもそも世界内の意識のことではなく、世界の存在の根底に無限に開けた空に全身心をもって直接する三世ぶっ通しの心性のことであった。それを仏心とも仏性ともいう。その心は「空における無自性の心」として、断絶しながら相続する、生滅しながら連続する意味では、非連続の連続である。これもくり返して言うことだが、「即心是仏」とは「即」も「心」も「是」も「仏」もその一々が空の場における無限に開かれた絶対自由の活動であって、それは「同時の発心・修行・菩提・涅槃なるべし」(「発菩提心」の巻) 言い換えれば、それは人間の作為によるものではなく、即心是仏が自ら発心・修行・菩提・涅槃するので、人間主体の絶対否定に働く絶対肯定の働きである。「学道用心集」(第三)に、「是れ仏の強為に非ず、機の周旋せしむる所なり」とある。機とは人間主体が自己の絶対否定において即心是仏の中に入り、即心是仏が即心是仏になって発心・修行・菩提・涅槃する。(菩提とはさとりのこと、涅槃とは入滅の意味と衆生済度の意味がある。)それは仏と衆生と最初から分けておいて、仏が一方的に働くのではなく、どこまでも衆生自身の絶対否定によるゼロ点において、はじめて即心是仏が即心是仏として働く、それを「機の周旋(世話をする)せしむる所なり」という。

 「いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは即心是仏にあらず。」「いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざる」とは、自己の全身心を投ずるのではない、外道見にいう観念論的な意識活動のことで、それは戯論の域を出ない。そして「我々の自己」は、「発心・修行・菩提・涅槃の諸仏」とともに、空の場における「自己のゼロ点」における働きであるから、「即心是仏」の釈意と同様、発心・修行・菩提・涅槃の一々はどこからでも主従の相入関係の動力学として、同時的に共に働くのである。

たとひ一刹那に発心修証するも即心是仏なり、たとひ一極微中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ無量劫に発心修証するも即心是仏なり、たとひ一念中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ半拳裏に発心修証するも即心是仏なり。しかあるを、長劫に修行作仏するは即心是仏にあらずといふは、即心是仏をいまだ見ざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。即心是仏を開演する正師を見ざるなり。

 ここは特別の解説を要しない。「刹那」「無量劫」「一念中」も、発心修証の時間の長短を問わず、「一極微中(芥子粒を何万かに砕いて、目に見ることができないほど細かに分割されたもの)」「半拳裏(握りこぶしを半分作る間)」ものの大小にかかわらず、世界の方からいっても時間の方からいっても、場所に関わらず発心修証する処ただちに即心是仏である。「自未得度先度他の一念をおこすがごときは、久遠の寿量、たちまちに現在前するなり。」(「発菩提心」の巻) とあった。この一念は自己のゼロ点の一刹那として、「久遠の寿量たちまちに現在前するなり」この信心に徹してゆくことだ。「もし如来正法眼蔵涅槃妙心をあきらむるがごときは、かならずこの刹那生滅の道理(一刹那の道理)を信ずるなり。」(同上) 「坐禅と悟りとのぐるぐるまわりで、未来永劫に坐禅の坐をたつことがない。いくどもいくども悟るのだ。その一切の時、一切の場所の発心修証、それが即心是仏だ。」(『全講』) 「しかあるを、長劫に修行作仏するは即心是仏にあらずといふは、即心是仏をいまだ見ざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。即心是仏を開演する正師を見ざるなり。」悟りとは一度きりだという説が世間に広まっている。禅仏教でも親鸞教でも同様にいわれているが、これはどう解したらよいであろうか。「発菩提心」の巻には以下のように説かれている。この説示は繰り返し繰り返し拝読参究して深く感銘すべきものである。「一発菩提心を百千万発するなり。修証もまたかくのごとし。しかあるに、発心は一発にしてさらに発心せず、修行は無量なり、証果は一証なりとのみきくは、仏法をきくにあらず、仏法をしれるにあらず、仏法にあふにあらず。千億発の発心はさだめて一発心の発なり。千億人の発心は、一発心の発なり。一発心は千億の発心なり、修証転法もまたかくのごとし。」

 「即心是仏」は無際限の発心修行菩提涅槃である。これは一途に自己の「絶対否定即絶対肯定」である空の場所においてのみ成立可能なのだ。学道者としてはつねに不退転の発心修行菩提涅槃の自覚がなければならない。実に強く感銘するのは、道元禅師ご自身の自省のことばである。「おほよそ退大(大乗を退失して二乗に堕ちること)のものおほきがゆゑに、われも退大とならんことをかねてよりおそるるなり、このゆゑに菩提心を守護するなり。」ここまでくると親鸞聖人のいわれる二種の深信と通底する「即心是仏」の道があるように思われる。念仏同様に打坐によって罪障のままで解脱できる無条件の道が開かれているということである。(参照 小論「罪障観における道元禅と親鸞教とのあいだ」(当ブログ))

補注:

以下はこの点について我々にとって大変重要なことなので、少し長いが、「発菩提心」の巻を引用して、共に参究する読者の資とならんことを願う次第である。

 

「発悟すといふは、暁了ぎょうりょう(さとること)なり。これ大覚(仏世尊)にはあらず。たとひ十地を頓証せるも、なほこれ菩薩なり。西天二十八祖、唐土六祖等、および諸大祖師は、これ菩薩なり。ほとけにあらず、声聞辟支仏等にあらず。いまのよにある参学のともがら、菩薩なり、声聞にあらずといふこと、あきらめしれるともがら一人もなし。ただみだりに衲僧・衲子のっすと自称して、その真実をしらざるによりて、みだりがはしくせり。あはれむべし、澆季ぎょうき祖道廃せること。」

 

「いまわれら如来の説教にあふたてまつりて、暁了するににたれども、わづかに怛たん刹那(注)よりこれをしり、その道理しかあるべしと信受するのみなり。世尊所説の一切の法、あきらめずしらざることも、刹那量をしらざるがごとし。学者(学道者)みだりに貢高こうこう(おごり高ぶること)することなかれ。極少をしらざるのみにあらず、極大をもまたしらざるなり。」

注: 120の刹那を一怛という。120の刹那はおよそ二弾指のあいだ。それからは凡夫にもわかるという。

 

「もし一刹那この菩提心をおこすより、万法みな増上縁(その力を増長させる縁)となる。おほよそ発心・得道、みな刹那生滅するによるものなり。もし刹那生滅せずば、前刹那の悪さるべからず。前刹那の悪いまださらざれば、後刹那の善いま現生すべからず。この刹那の量は、ただ如来ひとりあきらかにしらせたまふ。一刹那の心、能く一語を起し、一刹那の語、能く一字を説くも、ひとり如来のみなり。余聖(他の聖道を証した人)不能なり。」

(十一)

いはゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。

 最後の結文であるこの文章は、一見すると諸仏は、歴史的存在としての仏教の教祖である釈迦牟尼仏に代表され、あらゆる三世の諸仏は、釈迦牟尼仏に帰結されると読了したように思われる。しかしその読み方は、ことばに表現された限りの文面のみから意を解する読み方であって、なぜそこにわざわざ「即心是仏」ということばを二度用いているか、その真意を本当に解したことにはならない。この巻の全文の表題「即心是仏」が、どこから言われているのか、そのことばの根底にまで立ちかえって読み直してゆかねばならない。それは何度も言い直すことだが、前文と同様、この一文も空の立場から読み直すこと、行の立場から参究するのでなくてはならない。その空の立場に立ったとき、肝心の「即心是仏」と三世諸仏の存在と一仏としての釈迦牟尼仏との関係性が視野に入ってくるのである。全体が空の立場から見られるとき、一切法は無自性としてどこからでも主従関係を自由にする相入関係性(いわゆる西田哲学でいう絶対否定を媒介とする逆対応的関係)にあった。従って、三世の諸仏は結局一仏に帰するということは、「空」(摩訶般若波羅蜜多・実相・仏性・仏心)と、三世諸仏全体を摂する「世界」と、個仏としての釈迦牟尼仏(詳しく言えばイマ・ココに現成する一刹那即永遠としての久遠釈迦)とが、一であるということである。個仏としてイマ・ココに現成する釈尊は、天上天下唯我独尊の釈迦牟尼仏なのである。この釈迦牟尼仏は、歴史的に実在した発心・修行・菩提・涅槃の応身仏(現身仏)であると同時に、法身仏にして報身仏である限り、三身即一の絶対的な一仏としての「久遠釈迦」なのである。この絶対的な一仏としての釈迦牟尼仏は、他の諸仏の一々と同様不染汚(絶対待)に由っている。くり返して言うことであるが、いわゆる諸仏不染汚諸仏とは諸仏の一々のイマ・ココに現成する個仏が不染汚仏であり、仏法には一仏を挙げるとき諸仏の不染汚の道理として悉く一仏に帰するとき、その一仏は一仏のままで一多の数を離れた「即心是仏」である。過去現在未来の三世の諸仏はみな不染汚なるが故に、どの諸仏からも一仏に帰するわけだが、現実の仏教の歴史的教祖の存在として、釈迦牟尼仏が特に天上天下唯我独尊の釈迦牟尼仏として崇められるのである。しかしそれは、現実的なイマ・ココの我々の自己自身の外に対象としてある釈迦牟尼仏だというより、釈迦牟尼仏のみならず一切の諸仏が行的な我々の自己の下に既に実在する限り、究極的には天上天下唯我独尊としての釈迦牟尼仏は、このイマ・ココに現前する我が自己自身に(端的に正身端坐の行的な自己自身に)帰着して初めて生きた現実的釈迦牟尼仏なのである。

まとめ

 ここで、何度も繰り返す説示となるが、今まで長引いた最後の総括として、以下のように結論づけて、拙い筆を擱くこととする。一体、「即心是仏」の巻において、二見分別の主体の絶対否定である実在的な行的立場とは何か。それは一切がそこからそこへと帰一する空の立場、厳密に言えば「真空妙有」の立場に立脚しなければならないということである。(西田哲学では「絶対無の場所」の立場だといわれている。)

 それでは「真空妙有」の「空の場所」とは何か。その解明は『正法眼蔵』の本文を根底から本質的に読解し参究する根本的問題である。今空の立場とは一切がそこからそこへ、つまり一切がそこから生起しそこへ帰結する我々の自己のイマ・ココの直下に現前する根源的事実である。この原事実を抜きにしては、すべてが虚妄に化してしまうという、最も根本的本質的な不可欠の問題である。それは決して二見分別の対象にはならぬ、逆説的に空間的に言えば自己よりも此岸的な絶対此岸の事実であり、時間的に言えば、過去現在未来の三世の順序を崩すことなくそれらを一とする「絶対現在」である。それは我々の自己のもとに直接せる内在的超越であり、「直身なり、直心なり、直身心なり、直仏祖なり、直修証なり、直頂寧なり、直命脈なり」(「三昧王三昧」の巻)と「直」をもって立言した結跏趺坐の身心脱落の実在の行に具体的に示されるものである。この内在的超越としての空の場所(絶対無の場所)においては、一切は無自性の自性として「無即有」「有即無」である。「般若心経」の「色即是空・空即是色」の色は、(色の自性・とらわれの)絶対否定によって、同時に逆説的に絶対肯定としての如実の個の存在として現前する。この如実の個の存在の成立は、感性的知覚の立場や理性的思惟の立場からは成立不能であり、ただ空の立場からのみ成立可能なのである。三世十方に「即心是仏」ならぬ諸仏あることなし。

「一多量滅して、即心是仏の道環(相入関係)に帰し了る。」(「私記」)

「即心是仏とはそれ誰れをかいふ、人々(我々各自の自己自身)これ三世の諸仏にはあらざるか、釈迦牟尼仏豈に汝にあらざるなからんや。」(『正法眼蔵講義』神保如天)

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総注:

以下の説示は、外道見の「心常相滅」ではなく、正法としての仏法の真実を示す公案二例を挙げて読者の参究に資するものとする。

 一つは「劫火洞然とうねん(注1)として大千(注2)倶に壊す。未審いぶかし這箇しゃこ壊か不壊か。」大隋だいずい(注3)いわく、「壊。」僧いわく、「恁麼ならば則ち他に随い去るや。」大隋いわく、「他に随い去る。」また僧あり、竜済りゅうさい(注4)に問う、「劫火洞然として大千倶に壊す。未審し這箇壊か不壊か。」竜済いわく、「不壊。」僧いわく、「甚なんと為てか不壊なる。」竜済いわく、「大千に同じきが為なり。」(『従容録』第三十則)

注1:「劫火洞然」『仁王経』護国品五にあり。世界が成住壊空の四劫のうち、

    壊劫(世界の壊滅する時期)には大火災が起こって世界が一度に壊滅すること。洞然は火の熾んなるかたち。

注2:「大千」三千大千世界の略。宇宙の意。

注3:大隋法真(834-915) 長慶大安の法嗣。

注4:竜済紹修(不詳) 唐末五代の頃の人。地蔵桂琛の法嗣。脩山主ともいう。

 この公案は、「心常相滅」の考えをもつ僧からの問いに答えたもの。応答する大隋も竜済も、ともに空の場から答えていることが肝要。空の場においては這箇(仏心・仏性)も大千(世界)も無自性にして、「有即無」「無即有」の主従関係を自由にする相互の相入関係にある。従って世界が焼尽(壊)する主の時は「這箇」は世界のもとに従となって相入し(「他に随い去る」)「壊」となる。同じ問いに「這箇」の「壊」ではなく「不壊」と答えたのは、「這箇」の「不壊」が主となり、「這箇」の「壊」も「世界」の「焼尽」も従となって世界そのものは無自性として「這箇の不壊」に相入して(随って)「不焼尽」となる。つまり「相(世界)滅心(這箇)滅」あるいは「心常相常」として尽界一法究尽。問う僧の外道見(心常相滅)の対待二見と異なる。

 次の公案は、『全講』中に挙げられたものである。

聞見覚知もんけんかくち一一に非ず。山河は鏡中に在って観ざれ。霜天月落ちて夜将まさに半なかばならんとす。

誰れと共にか澄潭ちょうたん影を照らして寒き。 (『碧巌録』第四十則の頌)

 この頌は碧巌百則中の絶唱だと古来から言われている。「聞見覚知一一に非ず」諸感覚(色・声・香・味・触の各覚識)が一々に特殊化されて分かれる以前に、空の場の無限の開けに直接する原初的感覚知がある。それを「純粋経験」とも「直接経験」とも言われている。その空の場では「山河は鏡中に在って観ざれ」イマ・ココに現じているありのままの山河は、主客能所の二見以前の真実の山河であって、そこには解脱の自己も含まれた尽界の山河、尽十方界真実の山河ぎりである。それに直接するには「もの」を決して対象化して観ようとしてはならない。「霜天月落ちて将に半ならんとす」真冬の凍てつくような霜天の真夜中、月落ちて黒闇々、寂然として一物もない人境倶亡の絶対無の世界。これは空の場における絶対否定の世界である。「月」は心性、「人境」は万法の世界の様相、つまり「心滅相滅」のこと。しかし空の場は、単に絶対否定(大死)の世界だけではなく、同時に、それと絶対矛盾する絶対肯定の世界が表裏一体としてあるのである。それをこの第四十則の「垂示」には「休し去り歇けっし去って、鉄樹花を開く」(大死一番絶後に蘇って大活現成のたとえ)と言っている。つまり、「誰と共にか澄潭影を照らして寒き」我も共なる誰も澄潭(澄みきった池)も月の光に一切が皓々こうこうと照らされた寒空の底なしの世界。月のない暗黒の厳しさが「心滅相滅」の世界。皓々とした中秋の月の世界が「心常相常」の世界である。その両者が自己のゼロ点に開かれた空の場所において一つである世界を表現しようとしているのである。これも「心常相滅」の外道見を批判しているのである。